わたしの悪い癖です。
つい、トップを目指したり、自分ができないし苦手だってわかっているのに、頑張って努力と根性と忍耐で、できるようになることが、美徳だって信じていました。
だからこそ、できなくて苦手なことを、頑張ってできるようにしようとしているから、辛くてしんどくてたまらない。。
これって、ヨガのアーサナとの向き合い方とも、似ています。
そこで気づいたこと。
◉できないことをできるように努力することが、
人間的成長ではないってこと。
これに気づいたら、もう今までの自分の人生、ずっと、できないものをできるようにしようとしてきたので、
マジですかーー!!!って結構落ち込みました。
本当、ヨガのアーサナも、ポーズができるできないの視点でアーサナを捉えているときは、アーサナの練習が辛かったり、できない自分を責めて、どうにかカラダから柔軟性を高めようとしてしまいますが、、。
視点を変えて、アーサナができる結果ではなく、アーサナに向かうプロセスに視点を変えたら、そこに自分の成長があるし、日常生活にもつながる在り方、智慧が養われるなぁって腑に落ちました。
◉そうはいえども、
最初から何もやらず、努力しないのではなく、
やってみて自分の得意不得意を知ってから、
いらない努力を手放す。
じゃあ、何も行動せずにやりたくないからやらない、でいいかといえばそうではなく、
まず行動して自分の得意不得意を知って気づける内側の余裕があることが重要です。
やってみたけど、自分はできないし、苦手なんだって、受け入れられるからこそ、誰かに手伝ってもらえることを受け入れられるし、それと同時に、自分ができること、役割を受け入れて、それを与えることに集中できるのだなって。
アーサナに例えると、実際に練習してみて、自分のカラダの特徴、なんでできないか?の事実をトータル的に知ることが大切です。
それは、カラダの骨格的に無理なポーズかもしれないし、マインドのブロックがあってできないだけかもしれないし、アーサナに向かうプロセスの中で、心とカラダの循環を通して出てくる理由(気づきともいうかな)は一つだけではないはずです。
アーサナの練習を通して、自分の特性、自分を知って受け入れた中で、今できることを選択し続ける癖をつけることが、ヨガの練習だとわたしは感じますし、生徒さんのそのプロセスを真摯に見極めることができるヨガティーチャーを増やしていきたいとわたしは考えています。
ということで、できないことをできるようにする努力と根性と忍耐はやめました。
人としての成長とは、できないものをできるようになることではなく、
まずはやってみて、自分を知って、自分が今できる役割を受け入れ、それを通して必要な人にそれを与えることだ。
って、設定が変わりました。そしたら、一気に、肩の強張りや力みが取れて、心もなんだかほっとしました。
◉これが奉仕じゃん。
カルマヨガじゃん。
奉仕って、互いに循環することね。
心とカラダが自動でめぐるからこそ、受容が進み、自分の内側を知れる余裕がでますし、相手のできることできないことも受容できる。
互いのできることで智慧を出し合って、互いに巡れば、
自然体のわたしそのもので、循環型社会が成立するのでは?と思うこの頃。
そんなめぐる循環型社会をヨガを通して実現したいものです🙏